ビリヤードが初めて日本に来たのは本当に1850年代か?

(2003.04.21)

 よくビリヤード入門書なんかを読むと日本にビリヤードが持ち込まれたのは1850年代(嘉永・安政年間)である、とありますよね。はたしてこれは正しいのでしょうか?
 結論からいえばこれは間違いです。もっと以前よりビリヤードは日本の長崎出島で行われていました。
平戸から長崎出島にオランダ人が移ったのは1641年、その後長きに渡り日本との貿易を続けましたが、1853年のペリー来航あたりから時代が動き始め、その後鎖国は解かれ、1859年には出島が廃止され280年の出島の歴史に幕を閉じました。

 出島での特に古い時代のビリヤードを描いた絵巻に「出島」「長崎阿蘭陀出島之図」「紅夷人旅館図」「蘭館図」「出島絵巻」などがあります。これらは詳細は異なりますが、構図(特に玉突きをしている図)はみな同じで同じ作品を原画としていろいろな人が模写したものです。その中の「紅夷人旅館図」には絵巻の末に天明2年(1782年)に借りて模写したと記されていますので、どんなに遅くとも1782年には出島にビリヤードが」あったのは確実でしょう。

「紅夷人旅館図」一部  その他の絵巻もほとんどこれと同じ!
 ここに描かれているビリヤードは城門(ポート)とよばれるアーチがあるかなり古い型の台で、キューではなくメースというホッケーのステイックみたいな物で2個の玉を転がすものです。1782年ではいくらなんでも古すぎる台です。
 この時代のビリヤードのことを書いた文献では、司馬江漢の「西遊日記」の中に1788年に出島を訪れたとき玉突を見学したことが書かれていますが、どうもこの台ではないようです。(詳しくは後日別項で)
やはりこの台はもっと古い時代のものではないでしょうか。そうなるとこれらの絵巻の原画がいつ描かれたかが問題になります。
 また、少し構図は違うのですが狩野春湖が「出島図」という絵巻の一部に玉突きが描かれています。(おそらく玉突きをしている図は「紅夷人旅館図」らと同じ原画を参考にしていると思われ)
狩野春湖は狩野深幽の弟子にあたり、1726年に亡くなっています。そうすると遅くとも1726年にはすでに・・・
 さらに「出島」「長崎阿蘭陀出島之図」「紅夷人旅館図」らの原画ですが、これは渡辺秀石(硯)(1637-1707)が1699年に描いたという説があります。「唐通事会所日録」や「商館日記」の記録によると渡辺秀石(硯)が1699年に勘定奉行の命で出島を訪れ出島内部描いています。この時の絵が「長崎阿蘭陀出島之図」らの原画だそうです。
 そうすると1699年には出島にビリヤード台は設置されていることになります。
このあたりはまだまだ資料を調べなくてはなりませんが、遅くとも1700年代前半にはあったのは間違いないでしょう。
次回は絵巻・絵画に見る出島のビリヤードの変遷を予定しています。

参考文献 出島図 長崎市出島史跡整備審議会編
長崎歴史散歩 原田博ニ 河出書房新社
世界史の中の出島 森岡美子 長崎文献社


日本人 長崎奉行 「この玉突台は誰のものじゃ?」

ランダ人カピタン 「オラんだ」

・・・今日も長崎の夜は更けていく・・・