1812年(文化9年) 遠山の金さんのお父様 出島にて玉突きを見物

(2003.08.03)

 長崎出島では大事な日本人の訪問客があるとリキュール酒や蜜漬・タルタ・カステラ・ワッフルなどで会食し、そのあと商館員が玉突きをして見せるのがお決まりの接待コースでした。

 1812年11月2日(文化9年9月30日)長崎奉行遠山景晋(彼の息子が遠山金四郎景元 ご存知遠山の金さん)が出島を訪れています。彼は商館長ドゥフとお菓子を食べながら会談し、そのあと玉突きを見て帰っています。
景晋はドゥフに日記に「外見は頼りになりそう」と書かれていますが、頼りになるどころかもう辣腕。景晋は以前にもロシアのレザノフ来航の折、交渉役で長崎に赴任しています。次の年には蝦夷地に、その後は朝鮮通信使との問題解決のため対馬へと、幕府の外交官として日本全国まわっています。さすがは遠山の金さんのお父様。
 長崎奉行は一年交代、単身赴任が原則ですから1812年の時は息子金四郎景元は江戸でお留守番でしょう。父親がいないのをいいことに遊び人でもしていたのでしょうか?
 
 現在「長崎オランダ商館日記」(雄松堂出版)で1801年から1823年までの商館長や商館員の日記が読めますので、遠山景晋以外にどんな人物が出島を訪れて玉突きを見物したのか、「長崎オランダ商館日記」を参考にまとめて見ました。
日記での日付 訪れた人達 詳細
1802年6月15日 長崎奉行御一行様 食事の接待の後若干の手品と玉突きを見る
1806年6月21日 次席外国人世話掛セイエモン 玉突き見物のあと食事 
セイエモンとアヘ・イリスで1ゲーム玉を突く
1806年9月17日 長崎奉行 食事の接待の後玉突きを見て満足
1810年3月27日 外国人世話掛薬師寺久左衛門
平戸領主
小倉領主の家臣八右衛門
マクシ・ヨソベイ
食事の接待の後玉突き見物
簿記役ポヘットと商務員補スヒンメルが玉を突いてみせる
1810年4月30日 上席町年寄福田清太郎
普請役西村常蔵
他御一行様
不意の訪問のため充分な接待ができなかったが、ブロムコフの玉突きを見物
福田清太郎様らも玉突きをし、大変お喜びに!!
1810年5月10日 勘定方若山弥一郎
同じく勘定方大塚孝之助
他御一行様
簿記役ポヘットと商務員補スヒンメルが玉を突いてみせる
1811年6月6日 筑前領主御一行様 筑前領主と家臣及び外国人世話掛40〜50名の団体様
ホーゼマンとポヘットが玉を突いてみせる
1811年8月27日 奉行
高位の委員団
食事の接待の後玉突き見物
ホーゼマンとポヘットが玉を突いてみせる
1814年3月23日 上席町年寄高島作兵衛
他三名
食事の接待の後玉突き見物
フラティアンとハルトマンが玉を突いてみせる
1817年11月24日 新任長崎奉行筒井和泉守
前任長崎奉行
玉突き見物
玉を突いてみせたのは前商館長ドゥフと新商館長ブロンホフか?
1818年7月10日 唐津領主御一行様 食事の接待の後玉突き見物
書記ネイスとウェインストックが玉を突いてみせる
1818年7月13日 肥前藩の支藩の当主
鍋島直堯御一行様
食事の接待の後玉突き見物
書記ネイスとウェインストックが玉を突いてみせる
鍋島様は恥かしがり屋さん
1819年7月24日 島原藩家臣 9歳ぐらいの子供を連れて訪問
音楽を奏で、そのあと玉突きを見せる
1819年7月27日 島原領主一行様 食事の接待の後玉突き見物
書記二人が玉を突いてみせる
1820年10月20日 新任長崎奉行
前任長崎奉行 他御一行様
玉突き見物の後、夕食の接待 そのあと芝居観劇
両奉行様、玉突きを気に入り商館長に教わり突いてみる!!
1821年5月24日 紀州藩の家臣 食事の接待の後玉突き見物
商館員二人が玉を突いてみせる
御三家の御威光か?たいへん厚かましい連中
1821年10月11日 新任長崎奉行
前任長崎奉行 他御一行様
食事の接待の後玉突き見物
前任長崎奉行は去年玉突きを気に入った奉行
今年も少し突く (本当に気に入ったみたい)
1822年4月13日 肥後領主一行様 食事の接待の後玉突き見物
一行の何名か玉を突いてみる 大満足する
1822年10月30日 新任長崎奉行
前任長崎奉行 他御一行様
船の上で接待の後玉突き見物
フィッセルとバイエルが玉を突いてみせる
1823年8月17日 長崎奉行の家老? 「いつものとおり玉突き遊びをして」とある
常連さんか?
1819年7月27日の島原領主一行の出島見物(検分)は日本人側の記録「長崎勤書」にも残っています。
この島原領主松平主殿頭忠侯はこの時19歳。お供は我も我もと家臣や通詞30人近かったそうです。
「長崎勤書」にはこの日見物したビリヤードの模様が詳しく書かれていますので、ここではそれに詳しい「出島 −異文化交流の舞台−」 片岡一男 著から引用しました(p.211〜p.212)。
「亭之楼上」で「玉衝之戯」をカピタンと一緒に、オランダ人二人が実演してみせる「玉つき」を観ている。「紫檀之台」に「羅紗」をかけ、「上ニ象牙の玉三ツ」をのせておく。「白玉二ツ、赤玉一ツ」である。「紫檀の棒二ツ並べ」おいて、オランダ人「向ひ合」って「立ちながら」右の「玉」を「棒」で「つき」、玉と玉当り合、くるくるまわり」「台端」に「穴」があって「袋」のようなものが「下」っている。そのなかに「つき落」とした方が「勝と致ス」のである、と記している。「穴ツ」あって、いずれにも「袋下ル也」と説明づけられている。
当時の台およびキューは紫檀製だったのですね。
また穴につき落した方が勝ちとありますが、普通この型の台ですと、当てと入れ両方の点数を競うと思うのですが、どうだったのでしょう?

参考文献 
長崎オランダ商館日記 日蘭学会(編)・日蘭交渉史研究会(訳注) 雄松堂出版
出島 −異文化交流の舞台− 片岡一男 集英社新書