ペリーが黒船に乗ってやってきて鎖国政策が終り、いろいろな国の人が日本に来るようになりました。異人さんの住むところどうしましょう。う〜ん、街中は困るしなぁ。いろいろな意味で。とりあえず長崎出島みたいのを幾つか作ればいいんじゃない? 江戸幕府は列強の圧力で1858年に安政五カ国条約をアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスとむすび、それにより1959年より長崎・函館・横浜、68年より大阪・神戸、69年より江戸・新潟に居留地(外国人の自治地区)がおかれる事になりました。 (実際には函館と新潟にはつくられなかったそうですが) その中のひとつ横浜居留地では、1860年(万延元年)にはすでに居留地内のホテルにビリヤードがありました。 文久2年出版された南草庵松伯の「珍事五ヶ国横浜はなし」に当時のビリヤードの模様が詳しく書かれています。 「角に異人の旅籠屋あり。間口三十間、奥行廿八間にて猶広大なり。(中略)猶玉にてかけの勝負事、昼夜ともおとらぬなり。但二間に三間の広蓋の如くなる角に穴あり、三尺程の台足付、中に赤玉二つ白玉二つありて、六尺計の棒にて玉をつき、自分の玉を他の玉に当りて穴へ落し、勝まけ有なり。猶外に大玉三十二あり。」 また、文久2年に来日したアーネスト・サトウも来日直後の仮住いが、「球戯場に接したホテルの一室に寝起きしていたので、実に騒々しかった」と回想録にも記しています。 このホテル(異人の旅籠屋)は年代的にみて、1860年(万延元年)横浜居留地に開業した横浜ホテルでしょう。 横浜ホテルは慶応2年(1866年)の大火で焼失してしまいます。ビリヤード台を置くと火事になりやすいというジンクスでもあるのか? なお「横浜はなし」の「外に大玉三十二あり。」ですが、これは数も多いし”大玉”と書かれ、また象牙の玉がそのままの状態で置いてあるのもおかしいので、これはアーネスト・サトウの日記にも出てくる「球ころがし」(Bowls)の球ではないかと思うのですが。 ちなみにアーネスト・サトウは友人にこの球ころがしで負けた後、ビリヤードで勝った事を自慢げに日記に書いていますから、ビリヤードはなかなか上手いのではないかと。 参考文献 神奈川県郷土資料集成 第2輯 神奈川図書館協会郷土資料編集委員会編 神奈川図書館協会 一外交官の見た明治維新(上) アーネスト・サトウ 坂田精一訳 岩波文庫 旅立ち アーネスト・サトウ日記沙1 萩原延壽著 朝日新聞社 |
横濱であなたと出会い そしてホテルでの熱い日々 今となってはそれも苦い想い出 あなたは何も言わず 私の前から姿を消した あなたは帰っていった 家族の待つ故郷(イギリス)へと あなたは去っていった この私から 賭け玉の負け 全額踏み倒してな(怒) |