1879年(明治12年)ビリヤード・イベント行われる

(2002.08.27)

 明治5〜6年頃から東京にも撞球場が増え始め、明治6年のはやり唄「開化大津絵節」にも当世の流行物として玉つき場が出てきます。
明治9年頃には玉突きが大いに流行し、官員が物を賭けて勝負を競い始める、と新聞にも載りました。
明治12年6月の東京府統計表によると玉突き場は53店に増えていました。もうすっかりブームですね。
 ただ、まだまだ技術的には幼く、散った玉を当てるだけで、逆に玉を集めると「こすっからい」と言われる時代でした。
ルールも赤白2点・赤赤3点・全部当って5点で63点に達すると勝ちという「六三ゲーム」とか「六三式」とか言われる日本独自の物でした。
(玉乃一熊先生はこの「六三ゲーム」のことを皮肉って「大和古流」と書いておられますが、この呼び名もなかなか味があるのでは・・)
 そんな中、ブームに当て込んだのか、海外の進んだ技術を紹介したかったのか、明治12年7月19日午後9時より釆女町(現在の中央区)の精養軒で欧米で玉突きの名手といわれるロヘルツとショルトル両選手が曲玉突きを披露しました。
観戦料は1円。明治12年ですと、うな重が20銭・牛乳1本4銭・大工の手間賃1日が50銭の頃ですからまあ高かったのでしょうか。(値段史年表 週刊朝日編 参考)
それにしても夜の9時から始まって何時までかかったのかは判りませんが、見物客はそのあと精養軒に宿泊したのでしょうか?人力車に乗って帰ったのでしょうか?交通網の全く発展していない時代、その辺も気になります。

参考文献 明治世相編 年辞典 東京堂出版 朝倉治彦・稲村徹元 著


ロヘルツ 「文明開化おーめーでとーございます」

ショルトル 「今日は曲玉をやらせていただきます」

ロヘルツ
「まずはマッセでクッションに3回入ります」
 
ショルトル 「たぁ!」
ー実技!ー

観客   「おおっ〜」

ロヘルツ 「いつもより多めにクッションしております。
次はカーブでこのピンの外側を通り赤玉に当てます」

ショルトル 「とうっ!」
ー実技!ー

ロヘルツ 「当りましてございます」

ショルトル 「玉を突くのはいつも私でございます。これでギャラはおんなじ

ロヘルツ 「私は頭脳労働担当。ショルトルは肉体労働担当でございます」