1883年(明治16年) 鹿鳴館完成 撞球室あり

(2002.10.06)

「日本も維新からしばらくしたのに、外国からは未だにバカにされとる。第一不平等条約がイカン。日本をナメてる証拠じゃ。おおっそうじゃ!日本が近代国家であることを外国人に見せつける為にも舞踏会なんぞを催すのがええかもしれん」と外務卿井上馨が総工費18万円をかけ現在の帝国ホテル隣に社交場 鹿鳴館を造らせました。
 落成式は明治16年11月28日。ジョサイア・コンドルが設計(他の設計では駿河台ニコライ聖堂や湯島の岩崎邸などが有名)にあたり、440坪の煉瓦造りニ階建てで大広間や大食堂・小食堂・新聞室・宿泊用の部屋などがありました。
 ちなみに鹿鳴館の隣の帝国ホテルも、もともと井上馨が外国人宿泊施設の必要性から渋沢栄一、大倉喜八郎らに説得し造らせたホテルでした。
鹿鳴館の夜会の日には横浜在住の外国人のため、横浜駅午後8時30分発の特別列車が運行され、終点の新橋駅からは人力車で鹿鳴館にお客を運んでいたそうです。なんとも贅沢な・・・

 肝心の撞球室(玉突場)は一階の奥の別楝にあり(下図赤い部分)、ここに5台のビリヤード台が設置してありました。
舞踏会が行われた二階中央の大広間(下図青い部分)が42坪ですから、撞球室はそれ以上の広さ。5台のビリヤード台ではかなりゆったりとしていたのではないでしょうか。台はこの時代ですから輸入品のキャロム台でしょう。


 正確な年代や詳細はわかりませんが、鹿鳴館の福(渾名か本名か不明)という従業員のビリヤードの腕前はかなりのものだったようです。
参考文献 鹿鳴館 擬西洋化の世界 富田 仁 白水社
史料が語る 明治の東京100話 日本風俗史学会編 つくばね舎


 芥川龍之介の「舞踏会」と云えば、文学オタクで知らない者はない。明治19年11月3日(本当は明治18年の同日)の事でございます。当時17歳の明子が鹿鳴館の夜会で仏蘭西の海軍将校ロティと出会い、一緒に踊ってアイスなんか食べちゃって、花火を見ながらロマンチックな気分になって・・・ってところで第一章は終わってしまいます(第二章は大正7年)。玉突場なんざ全然出てきません!おっかしいなぁ〜芥川!一階の奥にあるだろう、玉突場。
芥川龍之介ほどの作家が玉突きの事を書かない筈がない!これはきっと第一章の終わりに書かれていた部分を龍之介がぼんやりした不安のため発表しなかったのでしょう。絶対。原稿も龍之介死後もいろいろあって遺族の手から離れたのでしょう。多分。原稿の行方は誰も知らない。
ということで幻の第一章の終わり部分を勝手に発表します。本物の「舞踏会」は名作だから本屋で立ち読みしてください。



「私は花火の事を考えていたのです。我々の生(ヴイ)のような花火の事を」
暫くして仏蘭西の海軍将校は、優しく明子の顔を見下ろしながら、教えるような調子でこう云った。
 が、やがて彼は、この児猫のような令嬢の寒がっているに気がついたと見えて、いたわるように顔を覗きこみながら、
「一階に下りましょうか」
「ウイ・メルシイ」
明子は鼻を詰まらせながら、はっきりとこう答えた。

 その後明子は仏蘭西の海軍将校と腕を組んで、一階の玉突き部屋へ下りて行った。
玉突き部屋の中にも至る所に、菊の花が美しく咲き乱れていた。一番奥の台では長い辮髪を垂れた支那の大官が、若い燕尾服の日本人と玉突きをしていた。
 明子は玉突き部屋を見まわすとこう云った。
「私も仏蘭西の玉突きを見とうございますわ」
「いえ、仏蘭西の玉突きも全くこれと同じ事です」
 海軍将校はこう云いながら、玉突き室を繞っている菊の花を見廻したが、忽ち皮肉な微笑の波が瞳の底に動いたかと思うと、
「仏蘭西ばかりではありません。玉突きは何処でも同じ事です。亜米利加でも呂宋でも」と半ば独り語のようにつけ加えた。そして彼は壁に立掛けてあったキユウを二本持ってきて深緑の羅紗の上を転がしながら異様なアクサンを帯びた日本語で、はっきりと彼女にこう云った。
「一しょに玉を突いては下さいませんか」
 明子は彼の顔をそっと下から覗きこんで、
「私では御相手になりませんわ」と半ば甘えるように答えた。
「ノン。大丈夫です。ハンデイを差し上げますし―――」

「あら、嬉しいっ!それなら3・7ダブル頂戴!
紀州ルールでいいわよね(はぁと)」