1890年(明治23年)頃 日本でジョイントキュー製作される
(2004.06.27)
明治時代前半における日本のキューはつなぎ目なしの一本キュー!ではいつ頃からショイントキューが国内で作られるようになったのでしょうか。一説によると明治23年頃のようです。 イギリス・ドイツに留学していた数学博士藤沢利喜太郎が明治23年頃に帰国した際、持ち帰った二本継ぎ木ねじのキューを当時吉野商店に勤務していた福沢熊次郎が譲り受け、これを切断し研究し、日本で初めて木ねじのジョイントキューの製作に成功しました。 この洋行帰りの藤沢利喜太郎という人は、なんでも日本の数学研究家の先駆者で帝大教授、多くの数学者を育てたり、自身も多くの著書を残し、1900年のパリでの万国数学者会議では日本の和算を紹介したりと、凄く偉い人でした。玉突は神田の淡路亭に通っていたみたい。 また福沢熊次郎は明治25年に吉野商店から独立しました。いい仕事していたのでしょうね。福沢の店は宮内庁御用達になってます。 で、福沢氏製作の当時のやんことなき方たち向けの台はどんなものかといったら、材質は唐木(※1)、金具は金色の紋章入り、脚やキュー立ては高蒔絵(※2)という超豪華(!)なものでした。一般人にゃ欲しくない台だわな・・・ ※1 紫檀か黒檀でしょう。 ※2 漆地に金粉、銀粉で模様を描いたもの。 撞球場日記 東京撞球普及会 玉突全書 愛球会 文泉堂 大日本百科事典 小学館 |
(つげ風不条理玉突日記) まさかこんな店にストちゃんがいるとは思わなかった ぼくはたまたま隣の台で玉を撞いていて キレたストちゃんにキユーを倒されてしまったのだ 当然キューは折れてしまった ぼくは一刻も速くキューを直さなければならないのだ 「もしもし この近所にキューを直してくれるところはありませんか」 「ちくしょう ダーツショップばかりではないか」 「ねッおしえてください キューを直してくれるところはどこだ!」 −誰も教えてくれず時が過ぎてゆく− 「そうだ 吉野商店へいけば直してくれるかもしれない おお そうじゃ」 −その店は金太郎アメのビルの中にあった− 「福沢先生!キューを直して下さい」 福沢 「まいど」 そういうわけでぼくのキューはねじでつながるようになったのです |